ケンタウロスの子守唄

 マイノリティは再生産役割を果たさないでマジョリティにタダ乗りするばかりだという批判が間々見受けられる。心がちぎれそうだ。あえて生産性の話題に乗ってやるならば、一定の人びとが「常識」から外れた生き方を選択していくことが子どもたちのロールモデルをより多様にすることに繋がるから、マイノリティはむしろ単に子を産むよりもよほど人間という種の幅を拡げうる、非常に大きな生産性をもつ者たちといえるだろう。だから、最初にあげた批判はまったく当たらないといえる。私たちの生きざまによって、この世界に絶望せざるを得ない子どもたちの数が少しでも減っていくなら、これより望ましいことなどひとつもない。出生率が低くなることを嘆き、仕事の割り当てが大きいままであろうことを憂慮し、老後にもらえる年金の額を心配する人もいるかもしれない。いずれも困りごとに違いないが、別に誰のせいでもない。政策のミスである。選挙で自民や維新に入れたことのある底知れぬ阿呆どもにも状況を嘆く権利は一人前にある。さあ、いまこそ官邸のお問い合わせボックスに文句を投稿しまくろう。にもかかわらず、かつて明るかったこの国の未来に帳が降りつつあるのは、よくわからない奴らが声高に権利を主張して義務を果たさないせいだと愚かな推察もどきを言いふらすしみったれた馬鹿がいる。最初の言説を述べる奴らと同じ程度の者たちだ。だからいくらでも言い負かすことはできるが、そのとき自分の胸に去来するのは、ここまでバトンを繋いできた祖母や母の姿である。祖母は自分が嫁ぎ先で大変な思いをしたから、せめて嫁たちにはそんな目に遭わせるまいと尽力した。母は自分が大学に行けなくて悔しい思いをしたから、せめて娘たちにはそんな経験をさせるまいと尽力した。彼女たちの思いを次世代に繋いでいくことが自分の本当の役割なのではないか。でも、そうしないことにも意義がある。そうしないことにも意義があるのだ。子どもを産まないなら仕事で成果を残すべきかもしれないと思うこともある。でも、できるだけ賃労働の犠牲になりたくはないし、新自由主義にも反対だ。私は、最低ラインを保証したうえで競争の自由も確保する、必要十分主義によって統制される経済が必要だと考えている。その最低ラインで生き、かつ子どもも産まない。この生きざまを堂々と全うする。最悪とみなされるロールモデルの下辺が更新される。それでいいのだ。最後はホームレスになって文字通り泥水をすすって死ぬ。小山さんは美しいものを追求しつづけ、幻想の部屋で死んだ。小山さんは私の未来だ。いかなる外部からの評価も求めない。美しさのほかはすべてどうでもいい。誰とも分かち合えないところにこそ美の本質がある。縄を解いて洞窟を抜け出すのに許可はいらない。もしあまりに強い外界の色彩のなかで不安に襲われ、みんながいる暗闇のただなかに舞い戻ってくるとしても、あふれんばかりに輝く光は決してそいつの記憶から消えることはない。言葉にはできないけれど忘れられない光こそ美しさだ。安心して語れることのうちにまことのことはひとつもない。私たちが真に生きるには、つねにすでに不安でいなければならない。その不安を人類に突き付けるのが、ほかでもないマイノリティの惹き起こすトラブルなのだ。生きててよかったね。もう泣かなくていい。私たちこそが世界の優しい無関心となり、みんなを遠くにきらめかせるのだ。