それはスポット・ライトではない

 自分の人生に光があるとすれば、それは驚いた瞬間に現れる。ふだんの私は絶望している。よく27年も生きてこられたものだ。未来などどこにもない。帰るべき故郷もない。なぜすべて終わりにしないのか自分でもわからない。でも、それは生き続けようとする自分もまたいるからだ。人にメールをして打ち合わせを入れる。再来年に刊行する本の企画を立てる。作業を進めるために電車を乗り継ぎ会社へ行く。空腹で気が散らないようにおやつを食べる。そうした積み重ねが私を繋ぎとめている。あるいは、友人と会う約束をする。よく食べて飲んで笑う。5年後の話をする。定年後の話をする。次の日も予定があるから帰ってすぐ風呂に入る。さっきまで飛び降りてしまいたいと思っていたが、どうせこのコレステロール値ならいずれ血管が詰まって死ぬのだからと妙に楽観的になる。外に出れば予想だにしない他人の生きざまに直面する。自分なら絶対しない服装に身を包む人、自分なら絶対観ないゲームの実況動画に集中している人、自分なら絶対立てない企画を思いつく人、自分なら絶対納得できない家事役割を果たしている人。大抵の場合は何とも思わないが、多少ぎょっとするときもある。私は右眼が極端に悪いから、左眼をつむると途端に景色が一変する。信号の明滅がぼやけた視界に滲んで扇形に広がって見える。ぽつぽつ続く街灯も同じ形になり、一続きの連なりになって遠くに現れる。あるはずのものが見て取れないその風景を、そういうものだとして受け止められる自分がいる。自分のなかには何人もの人間がいて、それぞれに心をもっている。自分というみみっちい回廊のなかでまるで違う性質をもつ人々がばったり出会い、相手をまじまじと見つめる。彼らのその驚きが私を生の実存に引き戻す。自分の人生に光があるとすれば、それは自分の、自分のなかの彼らの瞳に現れる戸惑いだ。感性の驚きが理性を揺さぶり、万物の終りから私を救い出す。私を照らすのは月灯りでもなく、スポットライトでもなく、蝋燭の灯でもない。まして太陽の光ではない。あなたはそれを知っているはずだ。