GYBE!

 鳥が一羽飛んできてこう言った。もう冬ですね。もう一羽飛んできてこう言った。鳥は人語を話しません。このような人間中心主義的な表現は即刻廃止されるべきです。私は困った。久しぶりに窓を開け、ベランダへ出てみたらこのありさまである。鳥たちはそれぞれ私の右肩と左肩に腰を落ち着けた。二羽はずいぶん小さいので、首をひねってもよく見えない。あなたはどう思いますか? と右から聞こえる。あなたに言っているんですよ、と左から聞こえる。私にですか? と聞くと、そうですと両側から同時に返ってくる。人間がむりやり鳥たちに人語を話すよう仕向けたならその批判もわかるけれど、今回はあなたたちがみずから人間の言葉をしゃべっているわけだから、勝手にすればいいんじゃないですかと言ったところ、持ち帰って検討しますと言い残し、彼らは飛び去ってしまった。

 暇なのでベランダに残って続きを考える。もし鳥たちが、人語を離さないとなにか不便な状況に追いやられているのだとしたら、われわれ人間が彼らを人間中心主義に巻き込んでいることに間違いはない。大変申し訳ない状況だ。でも、彼らが戦術として人語を話し、人間と交渉し生き延びる道を確保しようとしているのであれば、それを人間中心主義的とくくってしまうのは鳥たちの意志を軽んじることになるのではないかとも思う。

 一羽目が私に向かって発したのは、「もう冬ですね」という言葉だった。二羽目が現れなかった場合、会話はどのような展開を見せただろうか。きっと私は「そうですね」と返したはずだ。想像するに、そのあとはきっとこうなっただろう。

 「夏はあんなに暑かったのに信じられないです」「ひどい猛暑でしたね」「今年は草木がじゅうぶん育たなかったみたいで、いま南の国へ渡ろうにも、それに備えられるだけの食糧がないんです」「ちょっとでも足しになるなら、なにかもってきますよ」「ありがとうございます。それではすみませんが、南天の実をできるだけ集めてきてもらえますか」

 この場合、鳥は冬を乗り切るために人間を利用すべく人語を発しているわけだから、むしろ鳥中心主義的な人語発話といえるかもしれない。彼らの戦術は時とともに洗練されていき、人間たちはどんどん鳥たちの言いなりになるだろう。数世代あとには、この世は鳥の天下になっているかもしれない。人間は人間除けのネットとかで鳥コミュニティから隔絶される。まあそれならそれで、ネットを張るのが人間か鳥かの違いくらいで、あまり今と変わらない生活を送れるような気もする。

 ただ猛禽類が鳥社会のトップとして君臨した場合、人間のうち何人か、あるいは何十人、何百人かは小屋かどこかで飼育され、定期的に体をついばまれることになりそうだ。非常な苦しみであるに違いないが、歴史をふり返ればこれまで人間が人間に強いてきた状況と近しくもあり、じゃあ別にそれでもいいかという気になってくる。ある人間が飼育される個体になるか、その辺で今の人間社会と変わらない環境で暮らせる個体になるかはそのときの鳥社会の趨勢によるだろう。生まれた場所や体の形状にもよるはずだ。

 命あるものどうせ死ぬときは死ぬ。故人の無念だとか尊厳だとかを語るのはいつも生者のみである。それならどこでどう死んでも結局同じことじゃないか。なんだか面倒くさくなってきて身投げでもしてみようかなと思ったが、いざ柵から身を乗り出したら怖くなったので部屋に戻る。ちょうど窓を閉めたところでさっきの鳥たちが私のところに大急ぎで戻ってくるのが見える。ガラスに気づかず激突して二羽とも死んだ。