公共精神局へ

 公共精神局を知っているか。君は本日付でそこへ異動だ。私もよく知らないが、なかなか休みの取れないところらしい。きょうは挨拶だけしに行って、午後はゆっくり過ごしてもいいんじゃない、別に強制はしないけど。呼び出されて出社したら部長の部屋に向かわされ、だいたいこんなようなことを言われた。私もよく知らないの一点張りで、質問は受け付けてもらえなかった。だからといって、場所も教えてくれないのはさすがにおかしい。社屋前のバス停10:30発の便に乗り、「第七小学校前」で降りれば迎えが待ってるからとのこと。部長は鉛筆を舐め、しずしずメモに何やら記し、よこした。几帳面な筆致で「第七小学校前」と書かれていた。

 会社に人が来なくなって久しい。みんな自宅に引きこもって作業しているらしく、デスクはどれだけものが積まれていてもなんとなく生気に欠ける。ノートPCを収めた鞄の留め具が重さに呻くのがいま聞こえるたったひとつの音だった。私に割り当てられている机は、以前資料をあらかた持って帰っていたためがらんどうなうえ、薄ら埃が積もり、まるで灰塵に帰した街を眺める元住人の気持ち。椅子に腰掛け、カレンダー、メモ帳、ペン立て、輪ゴムに切手にクリップ、その他もろもろを鞄に収め、「公共精神局」で検索。トップは精神障害者手帳についての解説ページである。タップ、スクロール。最近マイナンバーを書かされる機会が多いが、手帳の申請にも要るとは思わなかった。眼や脚を失ったときも、このやっかいな数列が出しゃばってくるのだろうか。

 これで最後だったのに、オフィス、撮っておけばよかった。バスに乗ってしまった。行先は「第五中学校前」。なるほど紛らわしい。もらったメモを見返し、二つ折りにしてポケットにしまう。こんなことになるとは。変な職場だったらすぐやめよう。おわったら恋人に報告しよう。なんにせよきょうは景気づけだ、ケーキでも買おう。この間よろこんで食べてたのはチーズケーキだったっけ。ドアに下げといてあげる。午後は久しぶりに海へ行きたい。もうすぐやってくる小さな自由を思うときにはいつも波打ち際の光景がよみがえる。海は、幼子を失い徘徊しつづける老母。削られていく足指の間の星の砂。

 「第七小学校前」の文字がモニターに出てくるようになり、身構える。ここまで来ると知らない街並みである。ほかに誰も乗っていない。降車ボタンを押しそびれたら終わりだ。「野口橋」の次、ちゃんと降りた。その辺に担当の人がいるかと思ったけど、いない。遠ざかるエンジン音にシジュウカラの歌が続く。平日の午前中なのに子どもたちの声がしない。小学校、本当にあるの? 10分経っても誰も来なかったら部長に電話しよう。名刺もらってたっけな。まあメールの署名のとこ見ればいいか。部長とメールしたことあったかな。