死の凡庸さ

 仕事が全然終わらない。もうすぐ1年が終わろうとしている。2021年、とくに下半期は精一杯駆け抜けてきた。とはいえ何か格好のつくものを残してきたわけでもなく、単に息切れしているだけである。比喩を抜きにして、最近は呼吸が浅く、苦しい。ぬかるんだ道に毎日足を取られている。わずかにしか進まない。ゴールしたところでまた次の仕事が始まる。苦労の先には成長があるというが、労働力としての成長という意味なのであれば、それはまったく自分の望むところではない。社会の歯車を加速させた果てに、資本家たちはどこへ行こうとしているのだろう。

 自分がどうしたいとかいう話は脇に置いて、自死を選んだ人をより身近に感じる。五体満足で定年退職を迎えた人間よりよほど価値観が合うと思う。国分寺で亡くなった佐藤泰志のことを最近よく考える。どれだけ澄んだ瞳で決断したとて、死は、取り立てて美しいものではない。死は、日々の営みと変わらない凡庸な顔をしている。だからこそ、埒が明かない繰り返しのなかで、選択肢の一つとして立ち現れてきたとして、そこに過剰な意味は何もない。良いことだとも悪いことだとも思わない。こう考えている時点ですでに、私は死に至る病におかされているのかもしれないが。