子犬不在の部屋

 「発想がつぎつぎ湧く」ことがなくなってきた。風に乗る青い鳥を追うような、楽しい夢想のひととき。

 近ごろ鳥追っかけてないな、と気づいたのは実家に戻ってしばらく経ってからのことである。実家には自分の部屋がない。ほぼ誰かと一緒にいる状況で、ひとりになれるのはトイレくらいなものである。便座に座って正面の壁には私か妹が小学五年生のときに学校でもらってきた「今年習う漢字」一覧が未だ貼ってあって、腹の調子が悪いときはトイレに籠りながら一覧に並ぶ漢字で熟語を作る。一覧が登場する前には、壁紙にうっすら浮かぶ花びら模様を人の顔に見立ててドラマティックな騎士道恋物語を作っていた。そのころの方が断然豊かなトイレ・ライフを送っていたといえよう。

 常に誰かが喋りかけてくるのに加えて最近、実家では犬を飼いはじめた。リビングのど真ん中にかまえられたケージで、子犬がキャンキャン吠えたり、暇そうにしてたり、眠ったりしている。外に出してやるとヒートアップしてきて人の手を足を腕を服をかじりまくり、敷いてあるござを噛みちぎり、それでもおさまらないと食卓の周りを全力疾走する。ケージに入れても落ち着かないのは、用を足すサインだ。大か小か見極めて、人間たちはサッと掃除の準備に入る。子犬はブリーダーのところから買った。きわめて元気で、まだ生まれて3ヶ月のポメラニアンなのに3.4キロある丈夫さ。とってもかわいい。子犬を見ていると(「とってもかわいい!」を除くと)しつけや餌や病気などの実際的なことばかり浮かび、すぐさま調べまくってしまうのである。そして子犬はずっとリビングにいるから、ほかの部屋に退散できない私は必然的に子犬のことばかり考える。発想の飛躍の余地を残さない、圧倒的存在感である。

 いま、久しぶりにわがアパートに帰ってきて、なんだか手持ち無沙汰だ。ご飯の用意や洗い物や洗濯、ゴミ出しなど、やるべきことはあるにはある。それでも何をすればいいかわからなくてすべて先延ばしにし、原神で数時間潰した。何時から何時までやっていたかもあまり覚えていない。気づいたら日が暮れていた。とりあえずカーテンを閉める。5年前引っ越してきたときに選んだ赤い布地。自分ひとりの部屋で、一体何して過ごしてたんだっけ?

福島第一原発神社

犬を改造する夢を見た。もともと居間では8匹ほど白い大きな犬を飼っていた。毛足の長い犬だった。それらの内臓を切り離してはそのうちの1匹の身体に押し込む。臓器を結ぶ管の感触が手に残っている。ホルモンを噛んだときに似た弾力をたたえていた。6匹の犬の臓器はすべてその1匹の中に詰め込まれた。家族はもともと何匹の犬を飼っていたか数えたことがなかったらしく、気付く気配がない。しかし流石に2、3匹にまで減ってしまえば時間の問題である。どう言い訳したらよいものかと冷や汗をかくうちに起きた。夢の中で私は、犬どもに祟られることもまた恐れていた。わんちゃんがかわいそうとかいう感情は無かった。最近アニマルウェルフェアの問題に触れることが多い。そのときもやはり、動物がかわいそうだから、という論理にはどうしても納得できない。お前がこいつらに呪われるのだ、と名指しされないことには腑に落ちないのである。遠い子孫たちの立ち入りを禁ずるため、炉に屋根を架け、福島原発を「福島第一原発神社」として祀り禁忌の念を呼び起こすプロジェクトを考えた研究者がいるという。私は賛成である。フクシマがどうだったああだったと語り継ぐだけでなく、決して踏み込むな、呪われるのはお前だ、殺されるのはお前だと深淵から呼びかける声を聴かせる仕組みは、少なくとも私のような共感しにくい子どもたちにとってフクシマの記憶以上の効力をもつのだと思う。

欠格

佐世子は右目が極端に悪い。ある日ベッドに座って向かいの壁の時計を見たとき、頭部がひとりでに右へ回転し、自分が左目の視野をフル活用して時刻を確認していることに気がついた。左目を手で隠してみると部屋は途端に輪郭を失う。立てた膝にかけている布団はカバーの細かい皺までよく見えるから、その先の景色のあいまいさが際立ち、ずっと遠くにある巨人の部屋を眺めているような気分になる。全部自分で選んで買い揃えたものなのに、自分の目で正確に見ることができない。右目だけでは私は私の部屋を認識しきれないのだと思うと彼女にはみずからの身体がふつふつと愛おしく感じられるのだった。

分断の国で

生きることは贖罪である。最悪なニュースが暴れ回るなか、あたたかな部屋で編み物をし眠りにつく。私ばかり平穏に暮らしてごめんなさいと泣く声がする。すでにじゅうぶん背負っているのに。生きることは贖罪だがあがなえる罪は限られている。泣いてもいいけど足場を崩さないようにねと小さな影に言い聞かせている。

ものぐさの主張

4,400円の靴下が欲しい。その前にいいかげん図書館に本を返さなければならない。本は2冊あってどちらも2か月延滞している。すぐできることほどやりたくない。原稿を読むのがはかどらない。なぜなら原稿は逃げないし目ん玉さえ無事ならばいつでもできる作業だからだ。冷蔵庫のトマトもそろそろ食べ切らなければと思って2日経った。買い溜めた本はもう何冊もベッド脇で自分の出番を待ち続けている。靴下のほかに2,980円のスウェットも欲しい。楽天で買えば今なら2枚で500円引きである。唸るほどの金があればいずれも買わずに済むのだろうと思う。

抵抗せよ

大学に入って、それまで本やネットの文章でしか目にしたことのなかった言葉が生身の人間の発声によって現前するのを体験し、いいところだなと思った。一方で、そうした固有名詞が会話を盛り上げるための気の利いた道具として用いられる場面にも間々立ち会った。誰かが生の実存をめぐって死ぬ気で絞り出した思想を適当に引っ張ってくるだけでユーモア光るインテリ顔ができるのだからお得なものである。こうした態度が死ぬほど嫌いだ。すべての言葉は闘争なんだと言いたい。先人たちの苦悩はぺらぺらのカードゲームに付き合わされるためにあるんじゃない。そして、憎きお前のも含め、私たちの日々ってそんなに軽いものではない。お前の人生はお前にしか歩めない。適当な言葉でごまかすな。何もしゃべらなくてもいい、他人の繰り出すワードに縛られるな。GoogleMapの言う通りに歩いてるだけじゃいつか崖から突き落とされるぞ。毎日毎日殺されるって思っちゃうんだよねと昔友達が言っていた。そんなことあるかなと思ったけれどいまはその気持ちが痛いほどわかる。大学に通える環境にあった私たちにはノブレス・オブリージュがある。勝ち馬に乗った気でいると殺される。常に吟味し、監視しろ。周りのものを疑え。タイムラインを信じるな。自分を既存の形式に売り渡したとき、お前とお前の子どもたちはもうおしまいなのだ。