座りこんで光を見ている

 haruru犬love dog天使のEP『Lonely』を聴きなおした。詞に共感する。何周もした。まとまった文章が読みたい。それで彼女が寄稿していた『ユリイカ』ビリー・アイリッシュ特集を買った。ビリー・アイリッシュは去年センター街でかかっていた中で唯一良いと思ったアーティストだったが(安室奈美恵メドレーが流れていた時期もあった。その時は良いとか悪いとかではなくただ安心した)、センセーショナルぶった売り方の後ろにつまらないジジイたちの影が透けて見えるようで気に食わず自発的に聴く気にはなれなかった。だからこの『ユリイカ』が出たときも別にどうでもいいなと思った。おもねりやがってとも思った。東京の女の子、どうした?的なマインドを捨ててからものを喋れ。生き残ってる元気な中年が今の若者のすべてわかったような顔すんな。

 ここしばらくは本当に最悪なニュースばかりだった。コロナ関連の減収に現金の直接手当は現実的にありえないと原稿そのまんま繰り返した総理大臣安倍晋三の姿は記憶にしっかり刻まれた。給付金が欲しい方は手を挙げてだの民度が違うだのとのたまう副総理麻生太郎の表情も。夜の街、夜の街と執拗に繰り返し何の足しにもならない東京アラートで都民の分断と不安を煽る東京都知事小池百合子の口調も。日本の政治は終わっている。そして、市民も政治の一角を占めている、だから私たちも大概終わっているのだ。知識がないのは悪いことではない。ただ三権分立も知らずに安倍を擁護する者が多いのには吐き気がした。ロザンヴァロンによれば、市民は滅入ってないでみんなで共有できるプラットフォームなりなんなりを作るべきだという。私も行動して三権分立とは何かとか憲法と法の関係とか民主主義政治における首相のあるべき姿とか投票の意義とか、説いて回る啓蒙キャンペーンを繰り広げるべきなのだろう。

 ただ自分には人望がないうえに、毎日のようにウスノロどもによる差別発言を目撃して疲れきってしまった。政治批判は市民の権利だし、権力の監視は私たち主権者が民主主義を維持するため果たすべき義務でもある。そんなこともわからない人たちが、何かと「穏やかさ」を押し付けてくる。韓国人、中国人、在日外国人、あらゆる差別を画面を隔て目の当たりにした。特に女性への差別について、女である私は被害を受けている当事者だ。痴漢にも何度もあったことがあるし、飲み屋でもバイト先でも就職先でもセクハラなんて日常茶飯事だった。男性はどうしてこんなに愚かなことができるのかな、かわいそう、知能指数でも測ってみたらいかがですかと心の内で蔑むことで身を守った。ノットオールメンと言いたくなる気持ちもわかる。実際そうだとも思う。でも、社会の中で同じ属性を持たされている者としての自覚はないのか。話題をスライドさせよう。わが国の政治的責任について少しでも考えたことはあるか。シュタインマイヤーはなぜ謝罪したのか、どうして一部の日本人は韓国人を差別するのか。これらが同じ根を持つ問題だということがわかるだろうか。それは応答責任の問題だ。自分たちが傷つけた者の訴えには応えつづけなければならない、世代をいくつ超えようとも、このカテゴリーに属することを自任する限り。

 弱者には手を差し伸べる、そんなことも常識にならない世の中で何を信じて生きていけば良いのだろう。九州では雨が降りつづけ家も橋も流れ去り昨日は島根で江ノ川が氾濫した。もうこの国を出ようか。大学の健康診断で規定のルートをわけもわからないままフォード車のようにぐるぐる回らされてひどく安心したのを覚えている。いちいち考えこまなくてもちゃんと処理してもらえるんだ。ベルトコンベア式の計測を終え、最後に現れた医者に体調で困ったことはありますかと無表情で尋ねられる。この心地よさ。オーウェルの『1984年』の世界も悪くない気がしてくる。残念なのは、ビッグ・ブラザーはどうしたって不健全な存在で、拒絶しないわけにはいかないことである。

 haruru犬love dog天使は『ユリイカ』のエッセイでこう述べている。

私は常に救いを求めている。私をどこかへ連れていってほしい。洗脳して欲しい、何かを盲信したい。心のどこかで絶対的な存在に管理されたいと望んでいる。それが良くないことだとわかるし、おそらく一生ない事だからこそ抱える気持ちなのだと思う。 *1

  彼女を含め、救いを求める人は救われなければならないと思う。私のことも助けてほしい。ラミクタールは高いし漢方飲んでがんばっている。だからこそ、私も人に手を差し伸べたい。個人的な感傷や関係性を発端としたケアは軽視される傾向にあるが、そういったくだらない視線を投げかけてくる不勉強な奴の時代がギリガン登場以前で止まっているというだけの話である。

「誰かの心に寄り添いたくて、元気にしたくて歌を歌っています」などと言うアーティストに対して「偽善的で気持ち悪いなあ……」とよく思っていたが、今ではなんとなく気持ちがわかるようになってきた。(中略)私を救う為の音楽が、私と似たような人間を救えるのではないだろうかと思っている。

 本当は静かに暮らしたい。でもそれではどうにもならないことを知っている。知っていて看過するのは誠実なやりかたではない。他人のことはわからない。せめて自分くらいは、光の方へ歩みたいと思う。誰も私が見えないとしても。

*1:ユリイカ』2019年11月号、青土社